井伊家の歴史

井伊家の歴史


二十四代井伊直政公  二十二代井伊直盛公  元祖井伊共保公


浜松に六百年、激動の歴史を繋いだ遠江井伊氏歴代当主の御霊が眠る寺 井伊家菩提寺 龍潭寺

 井伊家の始まりは約千年前。平安時代の西暦1010年に、龍潭寺門前の井戸から誕生したといわれる共保(ともやす)公を初代とします。
 古来より水の湧き出る所は神聖視され、井伊家千年(遠江600年、近江400年)の歴史がここに始まります。
 鎌倉時代には、日本を代表する武家八介の一人として井伊介(いいのすけ)の名があり、遠江地方の国人領主として栄えました。
 南北朝時代には、南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子、宗良(むねなが)親王をお迎えし、一大勢力を誇りました。
 戦国時代になると、今川氏からの圧力が強まり、支配下におかれることとなりました。
やがて永禄三年、二十二代直盛が桶狭間で戦死すると、井伊家は受難の時代を迎えます。
直盛には嫡男がなく、従弟の直親を二十三代当主として迎えるも、今川氏によって殺害され、井伊家の男子は、直親の遺児、幼い虎松(のちの直政)ただ一人となってしまいました。
やむなく、出家していた直盛の一人娘は、幼少の虎松の後見人となり『井伊直虎(次郎法師)』を名乗り、女領主として井伊家の舵取りをしました。しかし今川氏との徳政令(とくせいれい)を巡る攻防や、家臣の謀反でお家断絶の危機を迎えます。
この時、徳川・武田の遠江侵攻が始まり、幼い虎松は戦乱を避けて、三河・鳳来寺へ預けます。やがて15歳になった虎松を徳川家康公に仕えさせ、直政となって活躍し井伊家再興を果たしました。

 家康公に仕えた直政は幾たびの戦いで功績をあげて「徳川四天王」と称され、徳川幕府の基礎づくりに大きな貢献をしました。関ヶ原の戦いで勝利した家康公は「天下を争う大戦度々先鋒として勝利を得ること誠に開国の元勲なり」と直政の活躍を称えました。
 その後井伊家は直弼を含め5人が大老職を勤めるなど、江戸時代を通して徳川幕府を支えました。

 幾多の苦難を乗り越えて繋がれた井伊家の歴史は千余年にわたり、龍潭寺はその菩提寺にあたります。



  元祖共保公出生の井戸


寛弘7年(1010年)共保公誕生。
寛治7年(1092年)逝去 遠江国守。
藤原冬嗣(藤原北家)六世の孫、共資の子で井伊谷に土着して井伊氏を名乗った。

井伊直政公像
(井伊家霊屋内)


井伊家24代井伊直政公、永禄4年2月9日井伊領内祝田で誕生。
15歳の時浜松城で徳川家康公に仕える。関ケ原の戦いでの武勲により慶長6年彦根の地に移る。 家康公の信任厚く彦根藩江戸時代三百年の基を築いた。
慶長7年2月1日逝去。42歳。龍潭寺に葬る。



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